子の心親知らず

実の母親に家庭を壊された毒親育ちのシングルマザーが親子のあり方を考察するブログ。

心の平安を取り戻すのに特定の宗教は必要なのか問題。

「宗教の役割」なんてことを語れるほど

知識も信仰も深くないけれど

今日はこのテーマで。

 

友達になりたいな、と思って近づいた人が

実はある宗教の信者で勧誘されてしまった、という

経験がある人も多いのではないだろうか。

 

私は、ある。

 

一度は会社の同僚でやたら私に懐いてくる子がいた。

友達になりたいのかなと思って

一緒に食事したり休日に遊びに行くような関係になった。

 

だけど3度目くらいの2人で会った時に

両親に紹介したいから実家に遊びに来ないかと言われた。

 

同性である。

 

結婚前提でもあるまいし、会社の同性の同僚が

なんで私を両親に紹介するんだろう?

 

とっても不思議に思った。

 

それが実行される前に

彼女の車でドライブに行くことになった。

 

車の中でかけるCDが、全部創価学会

説法だった。

 

彼女は運転中ずっとその素晴らしさを

語った。

 

それで私は気づいた。

 

両親に合わせて、家族全員で私を勧誘する

つもりなんだ、と。

 

ドライブ終了後、私は馬鹿正直に告げた。

 

「学会に勧誘するつもりなら会わない。」

 

すると彼女は態度を急変させて

「信じられない!」となぜか絶交のような形になった。

 

信じられないのはこっちである・・・。

 

2回目はとある外国在住時、彼氏と別れて

色々嫌なことが重なって意気消沈して

居場所を求めていた時のことである。

 

カフェで声をかけてきた女の子がいて

気さくな感じだったので友達になれるかな、と

私は思った。

 

最初は普通の会話だったのに

3回目で急にネットビジネスのセミナーに

連れて行かれた。

 

びっくりした。

 

そしてがっかりした。

 

そして最近、ママ友の中で距離が近づいた人が

いて(私から声をかけた)

共通のことがあったので相手も喜んでくれて

「今度うちに遊びに来て〜」と言ってくれた。

 

うちに遊びに行くようなママ友がまだいなかったので

嬉しかった。

 

その前にお花見に誘われて行ったら

全員教会の人だった。

 

クリスチャンの団体だった。

 

でもイベントは誰でも参加していいよ、と

言うので子どもの園の友達もいるし

子供と2人で持て余しがちな日曜日を楽しく

過ごせるので、その後も参加した。

 

だけどまた、2人1組でキリスト教の説明をされて

ぜひ一緒に祈りましょう!とか言われたので

 

やっぱり少し残念な気持ちになった。

 

この人たちは皆、先に

「あなた何か信仰がある?」とは一切

聞いてこない。

 

こちらがすでに何かの宗教や信仰を持っているか

どうかはおかまいなしに

 

突然熱心に自分が信じているものを

あなたも信じましょうよ、と勧めてくる。

 

推しが強い。圧が強い。

 

これが宗教の怖いところ。

 

本当に神のみこころに触れていて

愛に満ちている人ならば

先に相手が何を信じてどんな信念を持って

生きているのか、うかがうんじゃないだろうか?

 

当人はあくまで「善意で」「本当にいいものだから」

「良かれと思って」勧めているのだけど

 

相手にもすでに「信念」や「信仰」があるとは

考えないのかな?

 

どうして2、3度会っただけのその相手が自分たちより

神や宇宙について無知で誤解している、という

前提で話し始めるのだろう?

 

キリスト教の概念の説明を聞かされていて

私は聖書をきちんと読んだことはないのだけど

 

途中でやっぱ違うな、と感じた。

 

そのフレーズは

「信じるものは救われる。信じないものは

罪に問われる。」

 

「あなたは神によって選ばれた人」

 

「信じることで神の子となりましょう。」

 

私は私なりに神や宇宙のことを勉強してきて

もう真理がわかってきたな、とだいぶ体に

落とし込めている状態である。

 

だから

信じないものは罪、とか選ばれた、とか

と言う考え方はやはり排他的な西洋らしいところが

あるなあ、と感じたし

 

クリスチャンにならなければ神の子になれない。

守られない。

 

というのはそもそもおかしいなあ、と思う。

 

人は生まれながらにしてみんな神の子だし

毎日「イエス様!」と唱えなければ

自分の中に神を入れることができない、というのは

違って

神はすでに自分の中にいる、と私は感じている。

 

宗教が違うことで戦争になってしまうのは

やはりこんな風にそれぞれの宗教が

 

これを信じないものは罪であり

信じるものだけが守られる。

 

さああなたも早く罪深い世界から

脱出しましょう!

 

と固く信じているからである。

 

そうではなくて

 

森羅万象に神が宿っており

人間みな自分の中に神がおり

この世に降りてきた魂はみんな

等しく神は見守っている。

 

私は色々勉強と経験を重ねてきた結果

それが真実だと腑に落ちている。

 

自分の心を平安にするために

怒りを鎮め、不安や恐怖を和らげるために

特定の祈りの言葉が必要なら

それもいいと思う。

 

それぞれの宗教におきまりの言葉が

あるようだけど

それを口に出すことで、みんなで一緒に

歌うことで心の平安がとり戻せるなら

それを信仰にするのは1つの方法として

いいと思う。

 

ただ、心を平安にする方法はそれだけではなく

ヨガや瞑想や写経や音楽や料理など、

人によっていろいろな合うやり方がある。

 

10代のうちはそれが何かわからなくても

40年くらい生きれば大抵の人は何かしらの

方法を持っているのではないだろうか。

 

両親がクリスチャンだとか

生まれ育った環境で自然と信仰を持つのは

いいだろう。

 

でも成人している通りすがりの赤の他人に

同僚やママ友に誰かれ構わず信仰を勧めるのは

私はあまり好きじゃない。

 

そういうグループの人たちは

同じ信仰のグループの人とだけ

つるんでいて、

 

そうじゃない人とは付き合わないような

雰囲気。

 

それはそれで偏っているし

宇宙の真理はもっとボーダーレスなんじゃないかなあ。

 

人は皆生まれながらに神である。

わけ御霊である、と思い出せば

 

別に特定の祈りの言葉を唱える必要も

ないかな、と思う。