最近警察もののドラマにハマって、
暇さえあればずっと見ていた。
特殊部隊や公安を舞台にした
男たちの命がけの戦いのドラマを。
数十時間ドラマを見続けて
なぜだか急に父の気持ちがわかった。
私の父は、国家公務員だった。
国の安全を守る命がけの仕事をしていた。
戦争や災害など、非常事態が起きなければ
命の危険に晒されることはないものの、
いざという時に備えて日頃から過酷な訓練を
していた。
こういう仕事をしている父親をもつ
子供たちの多くがそうであるように
小さい頃の私は父を誇りに思っていた。
しかし日本という国を命がけで守っている父の元に
生まれた私は、皮肉にも外国好きになった。
父は愛国主義者だ。
日本の外に飛び出した私は
日本だけがすばらしいと思い込んでいる父や母の
差別心を嫌うようになった。
外国のことを何も知らないくせに。
国が意図的に流している情報に洗脳されているくせに。
父が日本を守る仕事で得たお金で私は大学へ行き
外国語を学び、日本の外を知ることになった。
そして父も母も、完璧じゃないとわかった。
両親が知らない世界が外には無限に広がっていて
私の方が知っていることが、山のようにあると。
なぜ知ろうとしないのか。
なぜ頑なに日本を崇拝するのか。
考えが浅くて、頭が硬くて
差別主義で、つまらないと。
だけど、警察ドラマを見続けているうちに
ふと、分かってしまった。
父は職業柄、
知ってはいけなかったのだ。
国家の機密に関わることをやっていたから
家族にも詳しい仕事の話はできなかった。
訓練で2週間家を空ける時も
母には行き先さえも知らされなかった。
父は、韓国や中国にもすばらしいところが
あると、知ってはいけなかった。
外国もいいなあ、などと思っては
職務に影響が出るかもしれない。
いつ招集されるかもわからないので
外国旅行など行くこともできなかった。
父は、18歳でそんな道を選び、
定年まで勤め上げた。
「子供の気持ちなんかわかるわけないやろ!」
と離婚騒ぎで憔悴していた私に言い放ち、
母と私が言い合いになった時には
理由も聞かずに母の味方をする父に
心底がっかりして
悲しくて
こんな人親じゃない、とまで
思ったが
父は、家族の気持ちに共感など
していることもできなかったのだと思う。
国家公務員というのは
非常事態の時に家族のそばにいることはできない。
妻子のそばを離れ
日本国民全員のため、国家のために
命をかけなければいいけない。
子供が泣いているだろうか?とか
子供は今大丈夫だろうか?とか
そんなことをいちいち心配していては
任務遂行できない。
事実、私が1歳くらいで妹がまだお腹の中に
いた時、住んでいる地域で大きな地震が起きた。
若かった父は、もちろん最前線で出て行った。
母は、大きなお腹で小さな私の手を握り
片手で倒れそうになった食器棚を支えたと
言っていた。
大変な時こそ、母は一人で子供たちを
守らなければならなかった。
父は、母を信用する以外なかったのだ。
自分の妻が一人でもしっかり子供たちを
守れると信じなければ、
子供のことはお前に任せた、と思えなければ
そばを離れて他人の救助に行けるはずもない。
昭和の時代
国家公務員でなくても多くの父親たちが
仕事最優先で
子供たちのことは妻に任せっぱなしだった。
妻を信用しなければ
子供たちの安全も家計も任せて
仕事に専念できるはずがない。
妻が何を考えているかと
深く考える余裕もなく
信じるしかなかった。
だから父は生きるために
家族を守るために
子供の気持ちにいちいち共感したり
もしかして妻がいい母親ではないかも
しれないと疑うことなど
絶対にできなかったのだ。
家族のそばを離れて国家のために
命がけで仕事をするのは
やはり男の仕事なのだなと思う。
後ろを顧みず
目の前のことに抜群の集中力を発揮し
ヒーローに憧れ
他人を守るために命をかけることに
喜びを感じるなんて
シングルタスク脳の男性ならではだ。
女なら、特に母親なら
普通は我が子を真っ先に守りたい。
たとえ国家が滅びることになっても
まず今我が子の笑顔を守りたい。
日本列島が分裂したとしても
家族だけは分裂したくない。
そう思うのが女だ。
外に向いている男と
内に向いている女。
どちらも人間の営みに
必要な能力。
父は若くして選んだ職業だったけれど
40年全うしたのだからきっと向いていたんだと思う。
職務を遂行するために
妻を信用し、子供の気持ちを考えることは
放棄するしかなかった。
安定した収入を得て
30代で家を建て、子供二人を大学と
大学院にまで行かせたのだから
親の務めは立派に果たしたと
思っているだろう。
過酷な仕事をしていた父に
子供の「心」の理解まで求めるのは
求めすぎだった。
父は父なりに精一杯だったし
男らしく家族を守っていたんだと思う。
だから、勝手に父のことは許すことにした。
そんな父が長年の功績を認められて
天皇陛下から賞を受賞したとき
私は離婚のことでそれどころじゃなかった。
自分と子供の今と未来が不安で怖くて
家族全員に憎しみを抱いている最中だった。
誇らしげにタキシードと着物で
写真に映る両親をみて
子供を犠牲にして仕事に集中した
結果だね!と心の中で毒づいていた。
すごいやん、とは言ったけれど
おめでとうとかお疲れ様でした、などの
言葉はあの時の私の口からはとても
出てこなかった。
娘が赤ん坊抱えて苦しんでるってのに
いい気なもんだわ、とさえ思った。
あのとき私は地獄に落ちていて
人生でもっとも全てを呪っていた時期だった。
少し落ち着いて
なんとか先が見通せるようになってきた今
やっと少し冷静に考えることができるようになった。
父は子供を犠牲にして仕事をしていたわけじゃない。
子供を守るために、家族を守るために
自分が選んだ仕事を命がけでやり抜いていただけだったと。
家族を養うというのは本当に大変だ。
就職氷河期に卒業した私の世代とは違い
好景気のいい時代に長く現役だったとはいえ
それでも家族3人を養うのはそれなりに重圧が
あっただろうと思う。
引退後の父は、好々爺といった風情で
いい顔をしている。
命がけの現場をくぐり抜けると
人はある意味「手放す」ことができる。
人の気持ちを考えることも手放し、
人生山あり谷ありでいいことも悪いことも起きる
ことを受け入れ
多少のことでは動じない。
私は父に対して”気持ち”の部分の理解や配慮を
求めていたが、それは意味のないことだった。
女心など無神経にならなければ
やっていられない仕事だったのだから。
私は父の生き方に何も意見できない。
過酷な仕事を勤め上げたことは尊敬するし
安定収入で養ってきてくれたことに感謝もする。
ただ、私は私らしく生きるだけ。
父が父らしく生きるしかできなかったのと同じように
私は私らしく生きるしかできない。
親の気に入るように生きることはできない。
30半ばまで結婚しなかった娘に
おじいちゃんになることをほとんど諦めていたと言う
父に、可愛い孫の誕生という贈り物ができたのだから
それだけで十分だ。
父を批判しない。
そして、私は私で自由に生きる。