子の心親知らず

実の母親に家庭を壊された毒親育ちのシングルマザーが親子のあり方を考察するブログ。

不安から選択した現実と実現できたはずのもう1つの選択肢

朝方、なぜだか急に私が選択することのできた

「もう1つの選択肢」を選んだ場合の情景が

脳裏に浮かんだ。

 

そして朝起きて新聞のテレビ欄を見たら

素敵な選TAXI」というドラマが始まることを

知った。

 

後悔しているあなた、

人生やり直すタクシー乗りませんか?

 

私が戻りたい地点は

2015年。

 

妊娠中の自分。

 

あの時、私はマレーシアにいた。

 

現実の私が実際に取った行動は

 

3月の下旬妊娠発覚。

4月に両親に報告。

 

妊娠報告の電話で母に

「じゃあもう離婚してもいいよ」

という違和感しかない言葉を

投げかけられたにも関わらず

 

「お母さんは私の幸せを喜んでくれる」

と堅く信じて疑っていなかったため

スルー。

 

6月

一時帰国して安産祈願と産院探し。

 

この時も母の態度が非常に悪く

「お母さんなんでそんな不機嫌なん?

私が子ども産むのがそんなに気に入らんの?」

という質問をぶつける。

 

そんな母の態度に夫は何度か

「どうしても日本で産まなきゃダメ?」

と聞いて来たけど

 

実母が孫を独占するために

夫を邪魔に思っているなど

夢にも思わなかった私は

 

「言っても初産で高齢出産やし

海外で産むのなんとなく不安。

産後すぐはやっぱりお母さんの助けが

必要だと思うから。」と

またしても断固スルー。

 

喧嘩になったこともあったけれど

「命かけて産むの私なんだから

私が決める!!」と言い張った。

 

初孫が生まれるというのになぜか

不機嫌な母を不思議に思いながらも

産院を決める。

 

夫と話し合い。

 

マレーシアの家は引き払って

出産前後の半年間私の実家近くで

マンスリーアパートを借り、

生後3ヶ月になったら夫が住んでみたいと

言っていたヨーロッパに移住することで

合意。

 

8月下旬、日本に帰国。

11月出産。

 

自然分娩の安産だったが日本は5日間入院なので

入院期間中に夫は寂しくてイライラを

ぶつけてくることがあり、私も涙。

 

母と夫でどっちが今日産院に行くか

揉めたりしていた。

 

母の本性あらわに。

夫精神崩壊。

私の初めての子育ては家庭内地獄

修羅場の中でスタート。

 

予定通り3ヶ月でヨーロッパへ行くも

夫の精神回復せず。

 

家庭崩壊の道へ。

 

シングルマザーとなって不本意な日本での

貧乏生活。

毒親の洗脳にはっきりと気づく。

妹と絶縁。

元夫死亡。

 

海外に新天地を見つけて理想の生活に

近づくもコロナ騒動でまた実家に居候するハメに。

 

買い物に出かける母や送迎の仕事をしている父が

感染しないか少し不安。

 

在宅で仕事をする私が相手をできない間

じいじばあばしか遊び相手がいない

娘もストレスが溜まってきた。

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もう、思い出すのも苦しいわ。

 

では朝方はっきりと見えた

もう1つの選択肢を選んだ私の人生。

 

2015年春 妊娠発覚。

マレーシアの産院の女医さんはとても

いい感じで、ここで産む決意。

 

38歳の高齢出産とはいえ

妊娠中も何のトラブルもなく

完全に健康だったので、問題ないと判断。

 

妊娠中にベビーグッズを夫と一緒に

いろいろ揃えた。

 

妊娠中は旅行などしてゆっくり過ごし

自然分娩で出産。

1日で退院。

 

夫は仕事もしていなくてずっとそばに

いるので、産後動けない私のために

買い物に行ったり掃除などしてくれる。

 

現地のお友達もいろいろ助けてくれる。

シニアの友人も多いので、まるで孫が

できたかのようにみんな喜んでくれた。

 

たまには子どもを預けて美容院や

お友達とお茶へ。

 

夫も「自分が役に立っている」と

いう意識が芽生えて調子がいい。

 

夫婦共に仕事をする必要もなく

孫の誕生と息子の幸福が嬉しい

義理両親からはさらに豊富な資金援助

が送られてくる。

 

生後半年で両家の両親に孫を見せるため

一時帰国。

 

ハーフバースデーをみんなでお祝い。

みんな笑顔だ。

 

夫に対し、「仕事どうするの?」という

親からの圧は少し感じるものの

今のところ義理両親には潤沢な収入と貯金が

あるため、私たちはさほど気にしていない。

 

日本滞在は旅行も含めて1ヶ月ほどで

切り上げ、またマレーシアのリゾートライフに

戻る。

 

子供が3歳になるまでは家でゆっくり過ごしたり

ビーチやピクニック、旅行など

たっぷり遊んで家族3人で子育てを楽しむ。

 

3歳になったら家から近い

インターナショナル幼稚園に入園。

 

いろいろな人種の子供たちと

英語や中国語やマレー語の飛び交う環境

主体性と個性を伸ばすイギリス式教育で

娘はのびのびと成長。

 

父親の役割ができていることで

夫の精神状態は見違えるようによくなり

仕事のことも少しづつ考えられるように

なってきた。

 

私も娘が幼稚園に行っている時間を

利用して在宅で翻訳の仕事を再開。

 

両親とは時々テレビ電話で孫の

成長を報告。

 

2020年、コロナ騒動で外出禁止になるも

マレーシアの大きな家で家族三人

出勤などの必要も元々ないので感染リスクも

低く、今まで通り仲良く家で過ごしている。

 

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実際に、私が里帰り出産するという選択肢を

選ばなければ、こっちの人生になっていた

可能性が高い。

 

本当にマレーシアの産院はいい感じだったし

私は妊娠中ノートラブルで人生で一番

幸せだった。

 

あの頃の夫なら、あの頃の精神状態のままなら

きっと産後きちんと役に立ってくれただろう。

 

私の母の介入がなければ

夫は今もきっと生きていて

むしろ本当に統合失調症なの?と

いうくらい健康な生活が送れていたかも

しれない。

 

それはわからない。

 

統合失調の人が仕事ができる割合は非常に

低いし、親になる重圧に例えあのまま

マレーシアにいたとしても、夫が耐えられたか

どうかは分からない。

 

夜泣きで疲れて情緒不安定になる私に

自分の方が甘えたいという欲求を彼が

抑えることができたかどうかは

わからない。

 

義理両親からお金をもらって

生活する暮らしが何年続けられたか

 

それでもきっと2020年の今はまだ

家族3人笑顔だったと想像できる。

 

なぜか、今まではこっちの

選択肢のことも想像したことも

何度もあったけれど

 

その結果の未来をうまく想像することが

できなかった。

 

多分、否定したかったんだと思う。

 

取り返しのつかない選択

戻ることのできない分岐路

もしあの時あっちを選んでいたら

今頃は幸せだったかもしれない

 

などと想像するのは、辛いから。

 

本当に悪いボスは私の母だけれど

それは間違いないけれど

 

選択して、行動したのは私だ。

 

私には、どちらも選ぶことができた。

 

ただ、自分の親の恐ろしい本心に

気づいていなかった2015年の私には

難しかった。

 

はっきりと覚醒した今だからこそ

あっちが正解だった。

愛からの選択は帰国しなという選択だった。

と分かる。

 

でも当時の私は、まだ

「お母さんは私の味方」

そう信じ込んでいたから、

母のそばで産まない選択がどうしても

できなかった。

 

子どもはみんなそう信じ込まなければ

生きていけないので仕方のない思い込み

だけれど、その間違いによって私が

失ったものはあまりに大きい。

 

夫、義理両親、妹

少なくとも、私の娘を抱いて

笑っていたはずのこの4人を

私は失った。

 

母一人を、喜ばせるために。

 

母一人の、潜在意識の願いに

応えてしまったがために。

 

母のその願いは

親として、人間として、生き物として

完全に間違っているのに

 

私はその願いに応えてしまった。

 

だからこそ、これほど

多くの笑顔を失ってしまった。

 

一時の判断ミスが

取り返しのつかない結果を招く。

 

これほどの痛みを経験して

やっと目覚めた私は

もう娘の役よりも母、そして女として

生きる。

 

娘時代は終わり、

これからは母として、女としての

幸せを最優先に生きる。

 

まだこの世界に生まれて4年の

愛しい娘のためにも

後悔はあっても諦めはしていない。

 

また、必ず夫婦という関係を手に入れるし

パパママ子どもの家族3人で

ピクニックする光景を実現する。

 

娘の本当のパパは、もう2度と

現れないけれど。

 

ステップファミリーでもいい。

私の恋人として、おじさんとしてでもいい。

 

私がもう一度チャンスを手にした時

母親という悪魔の介入は絶対に許さない。

 

本当に大切なものに気づいた私は

それを奪う人が誰であるのかに気づいた

私には、もう実の母を姥捨山に捨てる

くらいの覚悟がある。