3月21日に中国の東方航空の墜落事故があった。
その中には10組以上の新婚カップルが搭乗していたそうだ。
彼らは雲南省でウェディングフォトを撮影した帰りだったらしい。
私も過去、夫と2人で広州から雲南省に旅行に行き
おそらく東方航空で帰ったことがある。
こうした一度にたくさんの人が亡くなる事故は
人間の宿命のようなものを感じさせるから
私はこのことをインスタに投稿した。
すると”秒で”
アンチコメントを頂いた。
それは私が
彼らが最後にみた風景がこんなにも美しいもので
最後の思い出が人生史上マックスくらいに幸せな
もので、愛する人と手を繋いで一緒に最期の瞬間を
迎えられたのなら
それも幸せだったと言えると思う・・・
人間はみんないつか死ぬのだから
最期の時に愛を感じながら死にたいと
私は思う。
と書いた部分に対しての
批判コメントだった。
「あなたご自身がそう思っておられても、
幸せだったなんて言い方は.....亡くなられた方や
ご遺族にとても失礼だと思います。
突然未来を奪われて幸せなわけがないです。
これからもっともっと幸せが待っていたはずですから...
とても嫌な気持ちになりました。」
このコメントをみた瞬間に
私は
あ〜やっぱり反応する人がいた。
敏感な内容だよなあ、とどこかで
思いながらも投稿したから
瞬間的に素直に反省した。
「嫌な気持ちにさせてしまって申し訳ありません。
敏感な内容でしたね。修正します。」
と書いて、投稿内容の文章を修正した。
実は中国のSNSにも同様の投稿をした後だったので
そちらもすぐさま大幅に修正した。
クレームを言ってくださるお客様は
大変ありがたいのです。
改善点を教えてくださっているのですから!
これは私がカスタマーサービスの電話応対の
仕事をしていた時、課長がよく言っていたこと。。。
不特定多数の人が見る、
しかもフィードで見たくなくても勝手に
流れてきて目に留まってしまう、
そんなSNSでの発信では
やはり発言の内容には注意を払わなければならない。
(今更か!)
特に人の死に関する話題は
いろいろな人生経験、境遇、心情の人が
見ているから、敏感に痛いところを突いてしまう
可能性が高い。
わかってるならやめときゃいいのに・・・、
でも、批判的なコメントが1つきたくらいで
投稿削除はしない図太さは身についた。
ただ、当たり障りのないように
文章を優しく書き換えた。
確かに、他人の気持ちはわからないのだから
亡くなった人が幸せだったか
不幸せだったかなんて、他人にはわからない。
だからこのコメントも間違っている。
「突然未来を奪われて幸せなわけがないです」
どうして幸せなわけがないとこの人に
断言できるのだろう?
もし私がこの飛行機に乗っていたら
「嫌だ〜死にたくない〜怖い〜
なんで〜どうしてこんな不幸な目に遭うの〜!」
と叫びながら落ちたくない。
ちょうど結婚したばかりの
ウェディングフォトを撮ったばかりの
愛する人が隣にいる。
飛行機が落ち始めたらもう助からないのだから
愛する人と手を繋ぎ
あるいは抱き合い
あなたと出会えて幸せだった。
ありがとう。
天国で一緒に暮らしましょう。
そう言って、その時を迎えると思う。
よく映画などでもそんなふうに
こうしたシーンは描かれていると思う。
人間本気で覚悟ができたら
最後は愛と感謝が湧いてくる。
違いますか?
そうじゃなければ
誰にも必ず訪れる旅立ちの瞬間が
あまりに怖いものになってしまう。
神様はそんなふうに設定していないと
思う。
私は、確かに愛情のあった夫の
最期の瞬間に、立ち会えなかった。
彼に愛や感謝を伝えることも
彼に私と娘への気持ちを伝えさせる
チャンスさえもあげられず
永遠のお別れをしてしまった。
そんな経験があるからこそ
最期の時を愛する人と共に
迎えたい。
そんなふうに強く願っている。
誰1人、永遠に生きることなど
できないし
いつ何歳でどんな形でこの世を
去るのか、知っている人もいない。
それならば、
極端に死を恐れたり避けたりせず
いつ死んでもいいように
今、幸せに生きる。
後悔のないように
好きな人に好きと言って
好きなことをして
愛と感謝の中で生きる。
いつかではなく
今すぐに。
できることからやっていく。
私は40代になって
いろいろな経験を重ねて
こう思うに至った。
20代の頃は、死は遠いもので
飛行機がひどく揺れても
ジェットコースターみたい〜と
笑っているくらい
自分は死なないと思っていた。
30代。
守るものができて
少し死が怖くなった。
同じ人間でも
年代や経験とともに死生観は
変わるから
今、生に執着している人が
いるのも理解できる。
両親は70歳になっても
死の話を避ける傾向がある。
長生きと健康のために情報を
集め、生命保険の話はしない。
だからなのか
私の元夫が亡くなったことも
半年も隠していた。
いずれ来るその時
私は愛する人の温もりを
感じながら
愛を思い出しながら
幸せだったよ。
ありがとう。
そう言って肉体を脱ぎたい。
若いうちは生に執着して当然。
それが生命力でもある。
だけど40過ぎたら
ある程度の覚悟と達観をした方が
気が楽になるのでは、と思う。
ただ、インスタの投稿に関しては
まだ若くて赤ちゃんがいるこのコメント者には
怖くて不愉快に感じられたことを
想像できるから
素直に反省。
遺族の立場で、というコメントについて
誰かが亡くなった事件や事故の時に
必ず出てくるこの言葉。
でも、遺族のお気持ちについては
これもやっぱり本人しかわからないと思う。
例えば犠牲者の親の立場だったとして
私と同じように
いい人に巡り会えて
幸せな旅行をしてからあの子は
旅立ちました。
きっと、幸せだったと思います。
という気持ちの人もいると思う。
一方でこのコメントをした方のように
まだ若いのにまだまだこれからだったのに
あの子を返して〜!!と
航空会社に詰め寄る親もいるかもしれない。
私の周囲では
実際に大切な人をなくしたことがある人は
前者の気持ちになっている人ばかりだ。
「あの子は幸せだった」
そう思わなければ
辛過ぎて生きていけないでしょう。
それに、亡くなったらみんな
愛と光になる。
それを理解しているかしていないかでも
死に対する考えが変わる。
私は実際に亡くなった夫が
観音様の姿になって夢に出てきた時に
それを魂レベルで理解した。
強いまばゆい黄金の光を放ちながら
彼からは愛と感謝だけが伝わってきた。
禅寺のような、ものすごく平和で穏やかな
波動だった。
そして、義母は息子に先立たれても
「運命だったんだよ。」と言える
達観した人だった。
義母の親族も
「結婚して子どもまでできてから逝ったんだから
幸せだったよ。」と言ったそうだ。
人の死が天によって定められたものであるなら
他人から見て早すぎる死であったとしても
その人は今世での使命を果たしたから
旅立ったわけで
故人が望んでいるのは
いつまでも未練を残して泣いて怒って
暮らすことではなく
その死から多くの学びを得て
自分と周囲の人の今の生に活かし
幸せに生きることなんじゃないだろうか。
「今日を生きるための言葉」】第427回
死なない秘訣。それは死んでもいいと思うこと。
そして、今日したいことは今日のうちにすること。
毎日、充実した生(せい)を送っていると、死は遠ざかります。