人生変わるかもしれない。
離婚以来、7年間囚われ続けていた「人生間違えた」「わたしの選択のせいで家族が壊れた」という後悔と罪悪感が、消えそうだ。
1つ前の記事で「人生間違えた」ということを書いたばかりだけど、その夜、いつまでこの思いに囚われ続けなきゃいけないんだろう、苦しすぎる。
人生間違えた人がこの先幸せになることなんてできるの?このままじゃ人生やめたくなってしまう、どうにかして救われたい、と思って本を探していた。
Kindleの自分のライブラリを遡っていたら、『人生を後悔することになる人・ならない人』という本が引っかかった。
数年前に買って一度読んだけれど、もう忘れていたし今後悔に囚われているわたしは、本当に人生を間違えたのどうか知れる気がして、開いてみた。
前書きだけで、衝撃的な気づきがあって、そうか、そうだったんだ〜間違えてたのはわたしじゃなかった!!私は間違えてなかった!!と体の細胞中に大波が来て、すぐに本を閉じて目を閉じた。
本当に前書きだけで、これ以上ないくらいわたしに必要なメッセージだった。
以下に抜粋する。
人生を間違えるとはどういうことか
人間が生きる途上で間違えるのは、怒りの感情の処理の仕方と、苦しみへの態度である。
病気なのに健康なフリをしていれば辛い。それと同じことである。
苦しみの回避は「拘束と絶望」に通じる。
苦しみの回避のための努力は「私は、そのままでは価値がない」という心の中の感じ方を強化するだけだからである。
頑張っている途中で立ち止まって、「私の感じ方は、どこかおかしいのではないか?」と考えないと、不幸になる。
「自分という現実に向き合うことが大切」
生きるということは、人生の問題を解決していくということである。
人生の諸問題から逃げたければ、心理的には死ぬしかない。
要するに、人生の無意味感に苦しむしかないのである。
「現実の苦しみ」と「心の苦しみ」は違うものである
「自分自身であろうと決意」していないと、他人に気に入られるために自分を裏切り続けなければならなくなる。
努力しているのに不幸になる原因を現実の苦しみに求めてしまう。
お腹が空いている、寒い、それは肉体的苦しみ。それらの現実的困難と感情的困難は違うが、一種類だと思っている人が多い。
したがって対応を間違える。
「人生を後悔することになる人」にならないためには
苦しいことを乗り切って成長することが救済に通じる。
自分の心の葛藤に直面して戦うこと。
感情的困難と向き合うこと。
前書きから一部抜粋した。
この前書きだけで、私は、「間違えたのは私じゃない。母であり、父であり、妹であり、夫であり、そして夫の両親だ!」とはっきりと気づいた。
なぜなら半世紀近く人生相談をしてきた加藤先生は本章でも、
「人生を間違えて後悔することになる人は、人生の諸問題に真正面から立ち向かわず、なぜ?と考えることがなく、そのままにして、逃げて、感情的困難と向き合わなかった人である。現実的困難を避けるための努力だけをして、自分自身であろうとしなかった人である」(要約)
と説いているからだ。
これはまさしく、私以外の、家族の生き方そのものだ。
・・・続く