半年ぶりの投稿です。
Noteのタフティ実践日記は、最近全然更新してません(苦笑)
最初は熱心にやっていたし、マインドセットは続けているけど、仕事が多忙すぎてPCで文字を打つ気力が残っていない日々が続いてしまい…
ところで今月娘が10歳になりました。
わたしの母親業も10年ということ。
人生最大の試練だったこの10年を振り返り、未来を意図したいと久々にブログを書くことにしました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2015年3月 東南アジアの某国在住時に妊娠発覚。結婚4年目。わたしは子どもがほしいと思ったことはなかったけど、夫が子供を欲しがっていたので産もうという気になった。妊娠してみると、やっぱりうれしかった。
2015年4月 双方の両親に妊娠を報告。夫の両親は驚きつつも喜んでくれた。(驚いた理由は私が当時37歳、夫は精神病の薬を10年も飲んでいる状況だったからかな)
わたしの母は、電話での第一声が「……そうなん。じゃあ、もう離婚しても」で、夫と二人で何を言っているのか理解できなかった。母はとても低い声で、全然嬉しそうじゃなかった。むしろ、腹を立てたような声色だった。
5月。安産祈願のため一時帰国。もうおなかが大きくなっていたけど、対面した母はやっぱり嬉しそうなどころか、腹を立てている様子だった。今思えばあのとき母の潜在意識をきちんと見抜いて、里帰り出産をしない選択をするべきだった。
だけどわたしはどこか舞い上がっていて、幸せでいっぱいだったから母の黒い本心を見ようとはしなかった。
帰国ついでに夫が行きたがっていたとあるスピリチュアルのセミナー合宿に参加。そこにいた50代くらいの女性がわたしの大きなおなかをみて、「今が一番幸せなときね」と言った。
そのとき私は、「なんで今が一番幸せなの?生まれたあとのほうが幸せでしょ」と心の中で思ったが、今となってはその人の言葉の意味を痛いほど体感している。
夏の間は、夫と近場のビーチに旅行に行ったり、ひたすらアニメをみたり、ゆっくり過ごさせてもらった。暖かい気候で仕事もしなくていいゼロストレスな環境。夫はわたしが食べたいものをすぐに買ってきてくれたり、一緒に妊婦検診に行ったり、人生で一番幸せな時間だったかもしれない。
ストレスゼロだったから、37の高齢妊娠でもつわりも軽く、何の問題もなく、極めて順調だった。大きなおなかで通勤したり働いている女性たちを見ると、わたしはなんて幸福で恵まれていたんだろうと思う。
あの幸せがずっと続くように選択できなかったことを、この7年ずっと後悔している。
2015年10月。里帰り出産のため、臨月で私の地元に帰国。もちろん夫も一緒に。実家に滞在したり、近くのマンスリーアパートに滞在したり、親と喧嘩したり、波乱の始まり。
11月。娘誕生。 5時間の安産で母子ともに健康。赤ちゃんが可愛すぎてわたしは幸せだったが、わたしがいない間に夫は母にいじめられていて時々様子がおかしかった。
12月~3月。実家とマンスリーアパートを行ったり来たりしながらの育児開始。夫は勝手に向精神薬の服用をやめて、大きな環境の変化、母からのいじめが重なって精神錯乱状態になることが度々あった。そのたびに実家に逃げるという波乱の育児スタートとなった。
3月下旬。3か月の赤ちゃんを連れて東ヨーロッパに移住。夫はそこで友人とビジネスをする話があると言っていたが、結局成立せず、5カ月で離れることになった。
仕事がうまくいかないのとわたしが育児で夫にかまえなくなったことで、夫の精神状態は不安定。そんな夫と初めての育児、知人のいない初めての国での生活でわたしの心も時々限界を迎えた。
いったん離れたいから日本に帰るというと、不安な彼はついてきた。この帰国が私たちにとって致命傷となる。
いったん離れてくれればよかったのに、愛着障害の彼はわたしと片時も離れることができなかったので、わたしは落ち着いて育児をすることができなかった。統合失調症の錯乱状態の夫のケアと0歳育児を異国で一人でこなせる人がいるだろうか。仕方なかった。
8月末に帰国して、実家にいたり夫の実家に行ったり、台湾やバリ島に行ったり0歳児を連れてずっと移動していた。
こどもが1歳になったころ、夫の精神は完全に手が付けられない状態になっていて、わたしは自分と子どもの命を守るために仕方なく実家に避難した。そのころには母が夫をいじめていたことを知っていたので、母のそばにいるのもすごく嫌だったけれど、あの時の私には他に方法がなかった。
夫は私とわたしの両親に拒絶されて一人で放浪していた。しばらく別居して様子をみるつもりだったけれど、お金も渡してもらえないし、夫の言動は日に日におかしくなり、わたしは人生で初めて命の危機を感じていた。
2018年3月 1年たって、改善は期待できなかったので、不本意ながら離婚。
4月。妹に離婚報告をしたら「シングルマザーって家族に頼りそうだから」といわれて絶縁。夫がいる間は一緒に旅行してお金も出してあげたり、子どものことも可愛がっていたのに、ここまで冷酷な人間だったとは。どおりで独身彼氏なしのはずだわ。
当然実家で子育てするんでしょと思っていた母の言いなりにならないため、無理をして子どもとアパートで二人暮らしを始める。
お金がなかったから、最初は団地なども検討したけど、それまで夫の実家のおかげでセレブな暮らしをしていたから、もとは団地育ちのくせに、あの頃のわたしには受け入れることができなかった。無理して家賃7万の可愛いアパートに入居。
最初は自宅でフリーランスの仕事を始めたが、当然最初から収入が十分入るわけもなく、生活できないので非常勤の仕事も始める。
子どもは2歳のいちばん手がかかるころ。可愛くて楽しかったけど、時々わたしはパニックになった。
2019年9月。 日本でのシンママライフに限界を覚え、また海外移住。わたしは海外でも働けるある資格をもっているから、それで仕事を見つけた。こども3歳。
そこでは家賃は無料で3LDKの家に住むことができ、仕事も実働週3日くらいでとても楽だった。子どもは家から徒歩5分の私立幼稚園に入園。順調に新しい人生の出発ができたと思った。
2020年1月。一時帰国したらコロナで世界がロックダウン。突如国境を越えられない世界になり、1か月の帰国のつもりが10カ月足止めを食らう。また両親との暮らし。母の望み通りすぎて、母がコロナ騒動を巻き起こしたのかとさえ思うほど。
そのときに元夫が2019年9月に亡くなっていたことを知らされる。
両親は義父から電話で連絡を受けたのにも関わらず、私には半年も黙っていた。
意識不明だった時にも一度電話があったらしいが、それも私に知らせず、そのときに初めて言った。
もう離婚してるんだから関係ないって?
娘の実の父親なんだけど。この親にしてあの冷徹な妹あり。
わたしが奇跡の子どもなんだわ。
10月、日本脱出。夫の死を隠されていたことで、両親への信頼は完全に崩壊。二度とこの家には戻らない覚悟で部屋を片付けて家を出た。
2024年5月。アジアの某国で仲間に恵まれて楽しく楽に暮らしていた。娘は現地の言葉もペラペラになりつつあった。子どもが18歳になるまでいてもいいかなとさえ思っていた。
しかしあるトラブルが起き、5年暮らした(うち10カ月はロックダウンで日本にいたから正確には4年)国を急遽離れることになる。
5年暮らした場所を5日で緊急避難のような状態で離れなければならなくなり、女子連れ狼となる。地球をさまよう母と幼い娘。次の移住場所を決める暇さえなかったから、荷物はスーツケース5つぶん。ほとんどのものをかの地に残していかなければならなかった。
何この人生。
2024年6月。ノービザで3か月滞在できる東南アジアの某国に滞在しつつ、次の仕事を探す。子どもはついでに英語学校に2週間通わせた。こんな時でも無意味にしたくない。
幸い、前の仕事は給料もよく支出は少なかったので、電動車を売ったり保険を解約した分を合わせて3か月民泊滞在できるくらいの資金があった。
8月。別の国で無事に就職先を見つけ、ビザ手続きのためにいったん帰国。手続きには2か月ほどかかるとのことで、さすがに資金も目減りして娘もじいじばあばに会いたいと言うので実家にお世話になることに。
わたしは母に対して憎しみと不信しかない。そんな様子を感じている父と今度は大喧嘩。父はいつだって何があっても母の味方で、わたしの味方だったことなどない。それでも無邪気に信頼していたけど、このとき父への親愛の情も完全に消えてしまった。
10月出国。
2025年11月。 娘10歳。別天地での生活1年。
本当に大変な10年だった。
わたしはただ家族を愛して、子どもを産んだだけなのに、家族は私が子供を産んだことが罪であるかのように、わたしを罰した。
母にとっては、わたしが子供を産んだことは罪だったのだ。
世界でいちばん私に嫉妬していた母は、わたしがお金持ちでイケメンの男性に愛されて妊娠したこと、ずっとそばにいる優しい夫とお金を惜しみなく出してくれる裕福な義理実家のサポートを受けて楽に外国で子育てをすることが許せなかった。
わたしにはずっと無力な子どもでいてほしいと潜在意識で願っている母は、わたしが親となり、一人前の家庭を築くことが受け入れられなかったのだ。
過干渉毒親は本当に恐ろしい。こんなふうに、善意の仮面をつけて、自分でも自分の本心を認めないままに子どもの人生を破壊してしまう。
この10年、心がえぐれるほど自分と家族の内面と向き合ってきた。
数えきれないほどセラピーやカウンセリング、占いを受けてきた。
本もたくさん読んだし、セミナーにも行った。
必死に仕事をして、家事と育児をこなしてきた。
夫と暮らした優雅すぎる6年間は、人生のご褒美期間だった。
物質的に楽で恵まれていた分、精神病を抱える夫と向き合う精神修業があったが、わたしにはそれは乗り越えられるはずのものだった。
あのまま夫と一緒にいたなら、夫にも義理両親にも愛されて、感謝されて、幸せで穏やかな今があったのではないかと考える時がある。
統合失調症のパートナーと暮らし続けられる人は多くないと思う。
でも母の介入がなければ、わたしにはできたと思う。
わたしの使命は、そこにあったのかもしれないけれど、途中で消えたということはやぱり別の使命があるのかとも思ったり。
すべては宿命で決まっていたことだという説もある。
娘の性格は、父親がいたら今とは違っていたのではないかという気がする。
父親がいないだけでなく、祖父母ともあまり会えない環境で、友達ができてもすぐに離れてしまう引っ越し人生で、私たちは孤独に暮らしてきた。
一時的には仲間や友達と過ごせるけれど、基本的には母子2人きりで生きている。
娘は大家族にあこがれているようだ。
パパとママ、おじいちゃんおばあちゃん、兄弟姉妹がいて、犬がいて。
世界を旅することよりも、子どもには大家族や気の置けない友達がいる生活のほうが、よほど幸せだろう。
そうは思いつつも、私にはこれが最良の選択だった。
まさか40代を男なしで過ごすことになるなんて、20代のわたしは夢にも思っていなかった。34で結婚して、これでパートナー探ししなくていいんだ、わたしには一生一緒に行動できるパートナーができたんだと心から安堵したのに。
更年期を迎えて、老化を痛感している。
夫に愛されて暮らす7年と孤軍奮闘で憎しみと後悔の中で暮らす7年では、老化の程度も大きく違っただろう。
夫がいたなら、わたしはもっと美しく年を重ねていたに違いない。
今わたしはボディメイクと顔ヨガを頑張っている。
この7年、自分の外見をろくにケアしてこなかった。
わたしはまた男性に愛されて再婚する必要があるのだから、思春期を迎える娘に父親を作ってあげられないと死んでも死にきれないのだから、女を磨くことを始めた。
どん底で波乱万丈な10年を乗り越えて、強く美しく、そして優しく花開く10年があると信じている。わたしは50代が楽しみだ。