新米ママを追い詰めるのは、赤ちゃんではなく、周囲の大人だ。
初めて赤ちゃんという存在を目の前にし、出産直後の体力も回復していない中で
休む暇なく赤ちゃんという未知の存在の世話を一手に任される。
おっぱいの飲ませ方も試行錯誤、抱くのも恐る恐る、おむつだってやりながら
覚えていく。
物言わぬ赤ちゃんが、なぜ泣いているのか、もちろん最初から分かるわけもなく、
抱っこしたりおっぱいあげたりおむつ替えたり、あれこれ必死にやってみる。
寝かせ方ひとつで、何日もネットを調べたり本を読んだり。
腹を痛めて生んだわが子を、10月10日、同じ体で過ごしてきたわが子を
誰よりも思い、分からないなりに、必死に勉強して、試して、やっている。
家事も、夫のことも、もちろん自分のことなんて 考える余裕などない。
最初の3か月くらいは、みんなそうじゃないだろうか。
それなのに、祖父母は旧時代のやり方で あれこれ口や手を出し、
夫は 自分をかまってくれないとすねて
赤ちゃんが少しでも泣いたら、揃いも揃って
ママの顔を見て 「泣いてるよ!」
泣き止ませるのは、いつだって母親の役目。
泣き止まなかったら、母親のせい。
今日、生後4か月の娘が、大人のベッドから落ちてしまった。
夜はベビーベッドで寝かせているんだけど、朝寝をいつも大人のベッドで
させていた。
動くので、頭のほうに枕、体を向ける癖のある方にもう一つ枕を置いて
二つの枕で挟んで、ベッドのど真ん中に寝かせていた。
今までは、それで大丈夫だった。
だけど、今日、ダイニングで夫と食事していたら
どすんと音がして、その少し後に いつもと違う泣き声。
慌てて寝室に行ったら、枕を置いていない方のベッド脇に
うつぶせになって落ちていた。
抱き上げると泣き止んだし、にこりと笑ってもくれた。
外傷はなし。前頭部がちょっと赤くなってるような?
怪我はないか?様子は変わったところはないか?
抱っこしながら それをみていた。
だけど 夫は 赤ちゃんの心配よりも先に
わたしに 非難の目を向けた。
最近動きが大きいから 危ないと思ってたんだよなあ。
確かに、夫は何度か私に 大きいベッドで大丈夫?落ちない?
と言っていた。
私は、枕で挟んでるから大丈夫。と答えていた。
でも、昨日できなかったことが今日できるようになるのが赤ちゃん。
昨日大丈夫でも、今日は大丈夫じゃない。
夫は、本気で 危ないなあ、と思うならば
私に任せないで、自分の責任で娘をベビーベッドに移動させるなり
そばにいるなり、すればよかったと思う。
よくドラマとかでも、子供の怪我や病気を全部母親のせいだと責める
父親が出てくるけど、ほんとにそうなんだなあ、と分かった。
任せておいて責めるぐらいなら、自分がやればいいのに。
母親だって 人間だ。
疲れてもいるし、精神的にいっぱいいっぱいの時もある。
正しい判断ができないこともある。
育児は初めて尽くしで、母親だから本能で分かるってことばかりじゃない。
勉強して、それでも間違えたり失敗したり、だけど命にかかわることだけは
失敗しちゃいけないと、小さな小さな命を腕に抱えて、初めて経験する
生命を預かるプレッシャーと、共に生きている。
母親の判断に関して、これは正しくないぞ、と思うなら
父親の責任で、自分が思うことをやればいい。
母親を責めるのではなく。
子供は、二人の子供。
夫婦二人で、育てるもの。
母親一人に、責任を押し付けるものじゃない。
不注意で怪我をさせてしまったり、病気になったりしたら
一緒に、どうするか。を考える。
責めてる暇があったら、こんな時どうする?を調べる。
で、これからは、こうしようね。と話し合う。
そうやって 本当の意味で手を取り合って子育てができるように
なりたいものだ。
世の中の新米ママの家族は、どうかママだけを責めないでほしい。
赤ちゃんの世話を横取りしなくていいから、ママの肉体的精神的サポートに
徹してあげてほしい。
初めて命を育てている母親は、周囲のちょっとした一言、視線ひとつで
簡単に追い詰められるんです。
欧米では、父親が当たり前に子育てしている。
手伝う、という感覚ではなく、当然の自分の責務としてやっているように見える。
日本人が、日本という社会が、子育てする母親に真に優しくなることを、
心から願う。
そしてうちの娘が、どうか何ともないように。
2,3日は様子見。