2ヶ月くらい前になるけど
叔母(母の姉)も入れて温泉に行った時
叔母が子ども時代の話をした。
叔母が小さい時、
父方のおばあちゃんが同居していたけど
山で滑落して死んでしまっていたこと。
叔母より4つ年下の母には
おばあちゃんの記憶はないそうだ。
死因についてもこの時
初めて知ったと驚いていた。
それまで
「おばあは変な死に方したから」
としか聞かされていなかったそうだ。
母方の祖父母(私の曽祖父母)は
早くになくなっていたらしく
つまり母にはおじいちゃんおばあちゃんが
いなかった。
長女である叔母は、母親に怒られた時
離れにいたおばあちゃんによく慰めて
もらいに駆け込んでいたそうだ。
そういう存在がいるといないでは
大違いである。
おばあちゃんは(母の母)
村一番の怒りん坊で有名だったらしい。
叔母も、2こ下のもう1人の叔母も
同じような思い出を語るので
事実だろう。
診療所で婦長をつとめ、
PTA会長やら自治会長やら
とにかくなんでも「長」になる
仕切り屋のおばあちゃんだった。
シャキシャキしていて
大声で怒鳴っていたらしい。
子供達はよく定規で叩かれたそうだ。
怒ったところを見たことがないと言う
穏やかなおじいちゃんは船大工だったので
いつも港の方に仕事に行っていて
ほとんど家にいなかった。
母たち子ども4人は
厳しくて仕切り屋のシャキシャキママに
こっぴどく怒られながら育った。
たまにおばあちゃんがいなくて
小さかった叔母が「おかあちゃん!」と
泣いたりしていると
ご近所の人が
「あんな怒ってばっかりのお母さんでも
恋しいんか?」と
不思議がったそうだ。
叔母2人は共通してこんな話をするのに
母だけは
「おばあちゃんそんな怖かったかなあ?
私は怒られた記憶ないなあ。」
と言う。
末っ子だった母が姉2人より
怒られなかった可能性はあるが
それにしても1人だけ記憶が違うとは
母は幼少期の傷を固く封印してしまった可能性が高い。
ただ、ぽろっと思い出して言ったのは
「でも私だけなんも作ってもらえなかったのは
覚えてるわ。姉ちゃんたちは着物でもカバンでもよう
作ってもらってたのに私だけなんもなかった。
成人式の着物も私は作ってもらえんかった。」
おばあちゃんも年を重ねたせいもあるだろうし
子どもが4人もいたら戦後の不便な田舎暮らしで
末っ子のために新品を手作りする余裕もなくなって
いたのかもしれない。
幼い母は、それを悲しく思い
自分だけ姉より愛されていないように受け取り
だけど向き合いたくないからその悲しい寂しい気持ちを
封印したんだろう。
よく怒られたけど手作りしてもらって
きちんと母の愛情も感じていた叔母たち。
あまり怒られもしなかったけど
手作りも自分だけしてもらえず
愛情を感じられずに育った母。
人間にとって一番キツイのは
大事な人からの無視、無関心。
おばあちゃんの葬式の時
母だけが、号泣していた。
最期同居したり一番世話していたのも
母だ。
幼少期の愛情不足をなんとか
おばあちゃんが死ぬまでに
埋め合わせしようと必死だったのだろう。
だけど、母の老後の世話をして
一言感謝の言葉をもらうくらいでは
幼い自分が母に愛されていないのでは?
と感じてしまった傷は癒されない。
母は自分が母親からの愛情が足りなくて
悲しかったことを認めずに
封印したまま母親になって子育てをした。
仕切り屋でなんでも「長」の役を
引き受けたがるところがおばあちゃんに
そっくりの母は
その母から得られなかった愛情を
娘である私から得ようと
娘に母親を求めてしまった。
それが、こんなにも私を苦しめ
私たち姉妹の仲を引き裂く原因になった。
インナーチャイルドの傷は
きちんと専門家の手を借りて
向き合って癒さなければいけない。
無意識に子供から”奪う”親に
なってしまわないために。