↑こちらの記事で書いた通り
親とは「自分の感情より子どもの感情を優先すると決めた」
人のことを言う。
逆に言えば子どもを苦しめる毒親とは
「子どもの感情より自分の感情を優先してしまう」
人のことである。
もっともわかりにくい
過干渉タイプの毒親は
甲斐甲斐しく子どもの世話を焼き
身を粉にして働き
「子どものために自分を犠牲にしている」
ように見える。
毎日手料理を作って子どもにきちんと
食べさせ、
きちんとした服を着せ、
きちんと毎日学校へ行かせる。
自分の化粧品はプチプラでも
子どもの教育費は惜しまない。
朝から晩まで働いて
自分は10年同じ服を着ていても
大学へ通う子どもに仕送りをする。
その姿は誰が見ても
完璧で理想的な親。
子どもの方も
「親は自己犠牲を払って必死に自分を育ててくれた。
こんなによくしてくれたのだから恩返しをしないと。」
と思い込む。
私自身、40年近くそう信じ込んでいた。
でも、ちょっと待てよ?
これって全部、外から見える部分だけ、
立派な親、やってる?
お姑さんから見て
ご近所から見て
ママ友から見て
主人の同僚から見て
立派な親。
完璧な妻。
子ども思いのお母さん。
手料理や洋服や
お金や学校は
外から見える。
じゃあ、外から見えない感情はどうだろう?
心は?
親子の心の交流はあったか?
親は自分の感情を犠牲にして
感情を抑制して
子の感情を尊重してくれただろうか?
「感情を尊重する」とは
(私には痛そうに見えないけど)
あなたが痛いと言っているんだから痛いのね。
(私は続けたほうがいいと思うけど)
あなたはもうピアノをやりたくないのね。
(あのお友達は品が悪いように見えるけど)
あなたはあの子が好きなのね。
そんな風に
自分とは違う感覚感情を
あなたがそう言うなら、と受け入れ、信じてあげることである。
「こう思うんだ」
「こう感じるんだ」
と言う子どもの素直な感覚感情を
否定せず、無視せず
そのまま大事にしてあげることである。
子どもが「お腹いっぱいだからいらない」
と言っているのに
「せっかく作ったんだから食べなさい!」
「栄養あるんだから食べなさい!」とやるのは
親の気持ちを優先している。
子どもがピアノをやめてダンスを習いたいと言っても
「お隣のAちゃんもピアノやってるのよ。
女の子はピアノがいいの、ダンスなんてそんな品のないもの」
などと言うのは、親の気持ちを優先している。
そしてその「親の気持ち」とは
たいてい自分のコンプレックスや世間体、
周囲の目を意識した「自分がダメな親だと思われたくない」
ところから来ているのだ。
子どものことを考えて、のことではない。
私は去年妹と絶縁した。
親にその経緯を伝えた。
私は親にかすかに期待していた。
妹に「お姉ちゃんに謝りなさい」とか
なんとか、とりなしてくれることを。
実際にそんなことも言った。
しかし現実には
姉妹が顔をあわせることがなくなった、こと
以外には、何も変わっていなかった。
去年のゴールデンウィークを最後に
夏休み、正月休み、妹は帰省しなかった。
私が帰省すると言ったから。
親は私の前で一切妹の話をしなくなった。
まるで存在しないかのように。
娘二人が絶縁に至るまでのやりとりについても
ノーコメントだった。
だけど独身で40代に突入した会社員の妹は
長期休みに遊んでくれる人などいないのだから
親と連絡していないとも思えなかった。
私の娘の写真を送ってもらうために
何気に見た父のLINEに、妹とのトーク履歴が
あったのでちょっと見てみた。
1月の末に、両親と妹の3人でこっそり旅行に
行っていた。
にっこり笑って親と写る妹の姿があった。
私には、夫婦で四国に行くと話していた。
実際には、そこに妹もいたのだ。
姉との変化など、何一つなかったかのように
普通に旅行して笑っている3人が写っていた。
一方で今日はもう一人の娘と孫を受け入れ
かわいい孫と楽しい時を過ごしている。
親は、自分たちはそれぞれどちらの娘とも
時間を過ごし、娘二人の仲裁めいたことを
することは一切なくこの家族に何の問題もないと
やり過ごしているのだった。
今年の長いゴールデンウィークは
前半は妹、後半は私と孫、と分けるのだそうだ。
40になった娘の絶縁は知らんぷりすることに
決めたみたいだ。
これがもし自分、つまり親子の断絶なら
きっと大騒ぎしていただろう。
だけど母にしてみれば
娘二人が疎遠になることはむしろ昔から
願っていたことだった。(潜在意識で)
小さな頃から私と妹がタッグを組んで
母に秘密を作ったりしないよう
巧妙に威圧的に仕向けていた。
母がいなければ他の家族はお互いのことを
知ることがないように、母は電話交換手の
ような役を演じていた。
だからむしろ、大人になった姉妹が
一旦近づいたように見えたけど
結局離れたのは、母にとっては成功だった。
お母さんは、どっちの娘も大事。
どっちとも一緒に過ごす。
だけど娘二人が会おうが会わまいが
別に痛くもかゆくもない。
お母さんはお父さんと仲良く生活し
ご近所付き合いもうまくやり
自分の姉たちとも仲良くやり
生涯大学でお友達も作り
たまにはパートもし
ローンの終わった戸建ての家を守り
離婚した娘と孫の相手をし
独身の娘とも旅行に行く。
結局
父も母も
何も犠牲にしていない。
懸命に働いて築き上げた自分の城を
守る。
自分が孤独にならないために
子どもとの付き合いも友人付き合いも
うまいことやる。
両親は結局、子どもが摂食障害になろうが
腎臓病になろうが留年しようが
未婚だろうが離婚しようが
自分の人生の譲れない部分は
一歩も譲っていなかった。
自分は兄弟姉妹と歳をとって
一緒に旅行したり買い物行ったりして
親の老後も協力して面倒みてきて
大人になってからの兄弟姉妹の大切さを
よくわかっているはずなのに
パートナーのいない娘二人が絶縁したことに
対して、何のリアクションもない。
自分が孤独にならなければ
子どもが孤独になることはどうでもいいのか。
親は子どもの心配するのが当たり前や!と
口癖のように言っていたのに
本当に心配して然るべき状況になると全く
心配しない。
思えば親が”心配”していたのは
自分に対してだけだった。
つまり
小さな子どもが事故にあうのが心配。
→自分を必要としている存在が消えたら困るし
親の過失だと責められる。
子どもが学校に行かないのは心配。
→子どもが落ちこぼれたらダメ親と思われる。
孫を連れて外国に住むのは心配。
→自分からそんなに離れるなんて耐えられない。
親である自分が傷つくこと、寂しくなること、
思い通りに行かないこと、人様から悪く思われること
損すること。
子どもを通してそんな状況になることを
親は必死に心配していたのだった。
だから自分が痛くないことなら
子どもがどれほど深く傷ついてもそれは
心配じゃない。
娘が幼い子ども連れて離婚する。
→私のところに戻ってくるのね。やった!
娘二人が絶縁する。
→これでお母さんが除け者になることはないわね。
安心だわ。
私の親が
「子どもの感情より自分の感情を優先している」と
いう尺度で見つめ直してみたら
悲しいことに、40年の親子の歴史に全部
筋が通ってしまった。
私の心が号泣していても
血を流し続けていても
親は痛くも痒くもない。
拍子抜けするくらいにな〜んにも、
変わっていないんだと気づいたら
本当に馬鹿馬鹿しくなった。
こんな人のために
私の大切な脳と心を消耗させてる場合じゃない。
もうこれからは本気で自分のためだけに生きる。
親がどう思うだろうか?とか
親が悲しむかなあ?とか
みじんも考えてあげない!
親の期待とは大きくずれた
私らしい自由な生き方を全うする!
ただ、娘が求める間は、ジジババに
会う。パパのいない娘のため。
そしてもし娘がこの人がパパだったらいい、と
いう人が現れたら、容赦無くジジババに
さいならします。
今までありがとね〜!あとは(妹)ちゃんと
仲良くね〜!
2019年3月の決意。
「私は親の感情より自分の感情を優先します。
そして自分の感情より娘の感情を優先します。」